デザインのつぶやき

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カテゴリ:デザイン( 165 )


2016年 11月 25日

デザインっていったい??

デザイナーは何をデザインしているのか?
これは恩師が退官時に投げかけた問い。
恩師の場合は、自分の軌跡を示し、その事象から説明をしていた。

僕自身が思うに、デザイナーが、「デザインだ」とするモノを、何らかの形で活動した結果のアーティファクト(人工物)をデザインしているのだろう。
当たり前と言えば当たり前だが。
しかしながら、ある人の活動が、また別の人からすると「それはデザイン活動だろう??」と言われる場合もある
そのある人とは経営者や実業家だったり、デザイナーとは言われていない人々だったりする

僕が30代前半に勤めていたデザイン会社では「デザイナーを「文化提案者である」と定義していた
これはこれで的を得ているなと今でも思う
そうなると何が「文化」と言えるのか、新たな疑問も湧く
文化?と言われれば、例えばテレビでは世相・風俗として「80年代の....」として紹介していたりする。
そういう人々のムーブメントを起こしたり、活動を根づかせたり。そのように現れて来るのが文化なのだろうなと思う。
そんな文化提案者からすれば、チラシをレイアウトするくらいではデザインとは呼べないのかもしれない
デザイナーにとっては、いやいや今はそうであっても、ゆくゆくは文化提案者を目指しているのかもしれない

そこまで来て、言いたいことは
「自分の考案したことが優れている」「美的に優れている」などと考えてアーティファクトを作っても、一時的なんじゃないの?
文化とは、社会や他の人々から受け入れられて、使われて、やっと存在するモノで、一個人から愛でられる彫刻でもポスターでもないんじゃないの?って思うんですよ。

そう、どのように利害関係者と関わって、何かを構築して、自分の持っている何かをプラスして、相乗的に効果を高めていくと、結果として文化とか社会・会社になっていくんじゃないかなぁって思うんです。
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by Guild_HALL | 2016-11-25 03:44 | デザイン
2014年 06月 10日

時代で変化する表現

たまたま見つけたB5サイズの映画のチラシ。
初公開(1970年)してからのリバイバル上映(1974年)されたときのモノと近年デジタルリマスターされた公開のモノ(2011年)。
どちらが良いというわけではなく、古典映画の紹介なのか(多くの人が内容を知っているだろうと言う想定)と以前話題だった映画を見損なった人のための紹介なのかの表現の違いだろう。

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印刷技術も写真の切り抜き技術も全く違うので、どちらがきれい、デザイン的に優れていると論じることはできない。
また1974年モノの裏面は、フォーマットとして「こんな感じ」になってしまっているのは否めない。


好みも分かれると思うので、資料としてUp。
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by guild_hall | 2014-06-10 16:20 | デザイン
2013年 11月 25日

グラフィックデザイナーとプロダクトデザイナー

はたと気づいた。
グラフィックデザイナーとプロダクトデザイナーの違い。

多くの場合(絶対ではなく、多くの場合)、
・グラフィックデザイナーは、その人ひとりで発案、表現された物がクライアントに届く。
・プロダクトデザイナー(建築デザイナーもそうだけど)、その人が発案しても多くの人が関わって修正やら追加やら、熟成されて、市場に並んで、買われた時初めてクライアント(消費者・ユーザー)に届く。

グラフィックデザイナー(の多く)は、奇抜なアイデア、特異なアイデア、が出せれば出せるほど「個性」として扱われやすい世界だなぁと思う。全体よりも「個」が大事に思う。

プロダクトデザイナー(の多く)は、形態の美しさももちろんのこと、販売、生産に関わる様々な要素とのすりあわせが必要で、個よりもプロジェクト「全体」への影響を考えながら行動することが多いように思う。


「だから?」といってなんてことはない、ただのつぶやきでした。
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by guild_hall | 2013-11-25 11:42 | デザイン
2013年 09月 19日

思い込みを外す--見て感じている物は全て思い込みである


久々の投稿。

「思い込みを外す--見て感じている物は全て思い込みである」
今日のテーマは真実ではなく、そういう視点もあるという一石だと思って欲しい。
(いつもそうなんだけどね)

さてそう思ったきっかけは、Facebookの友人。
以前は、メッセージ送ってしばらくすると帰ってくる。
一週間とか1ヶ月とか、そんなに頻繁でない人は時間がかかるというのも致し方ない。

ずいぶん長いこと返事がないなと思って、連絡を取ってみたら他界していた。
その友人はBotを使っていたわけではないから、つぶやきめいたことが投稿されたわけではない。単純に亡くなっていて投稿していなかっただけ。

でも友人としての登録は当然ながら残っているから「生きている」と思ってしまう。
このデジタルの世界は触れることで何かを確認する事はできない
デザインという物も思い込みの塊でできていて、あたかも予定された調和、マーケティング調査によってデータ化されたものであっても、そのデザインされた物は受け入れられるとは限らない。
このことは理屈では「そりゃあそうだろ」と思っていても、自分がデザインした物が拒絶された感覚があったときは、へこむ。
人の責任にしたくなる。

状況は変わる。
「あのとき、こう決めたじゃないか」と言ってもそれは「あのときここにドジョウがいたじゃないか」と言ってるのと同じである

じゃぁどうしようか?
この一つの質問を時間かけずに持てることが、良い世界を作る第一歩に思う。

postscript;
フェイスブックの友人は、今でも友人として登録してます。
理由は簡単。僕が友人だと思っていて、生死に関わらず関われると思っているから。
思いで話したり、こうしてブログに書いてみたりしてその友人と関わっているのです。
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by guild_hall | 2013-09-19 14:39 | デザイン
2013年 06月 19日

一流と超一流のデザイン

これはまだ模索中の考えであることをまず最初にお断りしておきます。
超一流になるには、どうしたら良いだろうか?
一流は努力と実績の積み重ねで一流になれると思う。
では、超一流とは........

三流から二流になるには、
ヒトとしての関わり方の基本を守る。たぶんそれだけ。
・時間を守る
・約束を守る
・ヒトに不快を与えない
・気分で仕事を選ばない
・期待に応えるように動く

二流から一流になるには
・期待を超えるアウトプット(時間、仕上がり、質などなど)
・出力される物が一定=継続されている成果
などなど専門性が維持されていることだろうね

一流から超一流になるには.........個人の想像の域による物だろうな...と思う
先日「神の雫」なる漫画を読んでワインにおける「一流」「超一流」の違いの記載があった
同じ土地の道路一本隔てて、10万円以上するワインの畑と1万円以上のワインの畑があるそうだ。
その説に寄れば「働くヒトの質」らしい。
「超一流である」と言うところから、ワイン造りに関わっているか?ということらしい。
斜め読みなので、詳細は違うかもしれないが、僕の琴線には触れた。

超一流のデザイナーとして、ヒトとして、どう対処することに関わるか?
これが最終アウトプット、関わり方に現れてくるのではないか?
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by Guild_HALL | 2013-06-19 11:31 | デザイン
2013年 04月 10日

「いつも聞く同じ話」をデザインする

また違った視点を提案しよう

誰にでもある経験だと思う。
あの人のいつもの話。もう何回も聞いた話。また話しているいつものストーリー。
成功体験や子供の頃、愚痴。。。。。などなど。

なぜこの人は同じ話をするんだろう。。。。
忘れちゃったのかな??

こういう経験は誰にでもあるはずだ(無い方は、ブラウザの×ボタンをクリック)

なぜこの人は同じ話をするのか? と問う前に
なぜこの人の話はいつも同じように聞こえてくるのか?
と問い直して欲しい

なぜこの人の話はいつも同じように聞こえてくるのか?
理由は簡単。
聞く方に、人間としての成長・学びがないから。
聞く方が、話す方の言葉を「いつもと同じ話」という1種類の聞き方しかしていないから。
その1種類の聴き方の裏には、「もう話を聞きたくない」と思っているから。

同じように聞こえる話から、何が学べるか探求してみよう。
何か見つかるかもしれない。
そういう探求的な話の聞き方をすれば、何か世界が変わるかもしれない。
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by GUILD_HALL | 2013-04-10 13:51 | デザイン
2013年 03月 26日

デザインとブリコラージュ

ブリコラージュは、レヴィストロースが提唱する概念

多くのデザイナーと呼ばれる方々のほとんどは、この「ブリコラージュ」に当てはまる
これから先も、これで良いのかといわれれば、それはないかもと思ったので、改めて頭の中のものを出してみる

課題として、表装を変える事を目的としたデザインという手法は存在する
しかしながらデザインの本質でいえば
 我々の直面する重要な問題はその問題を作ったときと同じ考えのレベルで解決することはできない。
  - アルベルト・アインシュタイン

とあるように、そのくらいでなくてはいけないだろうなぁと思う

たとえば、携帯電話がiphone登場以前と以後を比較すればわかりやすかろう。
多くのデザイナーと呼ばれている人の行為(仕事)の本質は変わっていないことを。
従来品との差別化を創るためにデザインされている事がその分野の仕事の本質だと僕はいいたい。
デザイナーに限らずiphoneが革新的なデザインであって特別だと思いたいのだろうが、僕はそう思わない
これこそが今後多くの日本のデザイナーが手がける仕事なのではないかな?と思う

戦後から築き上げてきた日本の技術は、デジタル保存され海外に輸出(または模倣)され、その技術によって作らせる製品は日本である必要は無くなってきた。
それ故、現在従来の「日本製品の優秀さ」というブランドを担保にして、日本製品は存在している。
前述の「問題はその問題を作ったときと同じ考えのレベルで解決」することは、海外で解決した方が安い時代になってしまったのだ
しかもそれを繰り返す内は「ガラパゴス化」したサービスに依存するソフトウェアしか生み出さない。

ではどうやって、そのデザインアプローチをすればよいのだろうか?という疑問が湧いてくる
その問題を解決する答えは、いくつかあるだろう。
すぐに思いつくのは「問題を抽象化する」という一つのアイデアだ。
現象を捉えて、概念化し、新たに問題を創造する。
その新たな問題を解決するアイデア(再具象化)していけば、おのずと本質が見えてくる。
その本質をお金に換えるプランと合わせれば、日本発信型のオリジナルデザインができあがる

がんばれニッポン!!
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by GUILD_HALL | 2013-03-26 15:41 | デザイン
2012年 04月 27日

デザインセンスを磨く方法 -2-

以前
も記してみたことだが、デザインセンスについて記してみる

デザインセンスとは何か?
・関心事の集合
・意識

これを鍛えるには、もう一段階下がることが必要だと感じた
つまり学校で僕が教えていたように「記して、残す」こと

僕の大学時代には、ロゴタイプの授業でこんな事を先生から教わった
「ノートを一冊用意する。そのノートの左側に「悪いと感じたロゴタイプ50個」右側に「良いと感じたロゴタイプ50個」を雑誌や新聞から切り抜いて貼り付ける。それを毎日続けて行くこと。」

見て集めて体で覚えていくことなんだな

最近気づいたのは、センスというのは「ボキャブラリーなんだ」ということ
赤ん坊の頃は「あー」しか言えなかったのが、ボキャブラリーが増えていろいろな単語を使い分けるようになる。
これと同じように良いと感じたデザイン、事柄、あれやこれやを形容詞や形容動詞など「簡素な単語」でノートに記してみる
意外と言葉が出てこないことに愕然とするはずだ。
しかしこれを繰り返していくと、言葉が増えていく。

こうやってセンスは磨かれていくと思う
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by Guild_HALL | 2012-04-27 10:24 | デザイン
2012年 04月 25日

Facebookと個人情報

2006年の大学院研究で「人はどのように自分の環境と関わっているか?」を軸に、デザインの対象を金銭出納帳にしてみた。
簡単に説明すると、現在はお金と品物を問い変えたときに記録するものを金銭出納帳と呼んでいるが、本提案では「欲しい」「気になった」ときにも商品情報を、PDAのようなパーソナルデバイスに蓄積し、かわりに「こんな私がこの商品に気を止めた」という個人情報を店側に渡すという、情報交換もこの金銭出納帳に記録してはどうかという内容だ。
この「欲しい」「気になった」ものを集めてみると、自分のお気に入り環境となりそれが、自分で編集した第二次周辺環境といえるだろうという結論

それからおよそ7年が経ち、iPhoneやFacebook、Evernoteも台頭し、僕の研究も実現可能の世界になった。
いざFacebookを使い、友人のつぶやきにあるアプリのリンクをクリックすると「Facebookの情報を送りますか?」と出てくる。
こうやって情報の交換(全く新しい金銭ではない購買活動)が起こるんだなぁと再認識する次第。

あのころ大学で作り出した学部生のアイデアも今ではずいぶん実現可能だったり、既に実現していたり、時代を先取りした教育だったと思う今日この頃である
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by GUILD_HALL | 2012-04-25 11:30 | デザイン
2012年 04月 23日

デザインの種類−起業的デザインと継承的デザイン

ずいぶんと久しぶりの更新
製造というか(世の人はそれを作品と言うが。。。。。)なんていうのか……
言いたいことの要点はクライアントからの依頼を受けて何か自分で創作して納品する活動から離れていて、違う活動の方が(負け惜しみではなく)おもしろくなってきて、製造に関するデザインのつぶやきのネタが自分にとって身近ではなくなってしまったため、このブログに向き合わなくなってしまった
そんなところ。

とはいえ、視点はこれから製造的デザインな視点は思いついたら記していくけれど、おもしろくなってきた方の活動について記す方が多いよーということは今のうちにお断りしておく。

僕が飛び込んだActivity baced Design というのは、2003年のことで早9年になろうとしている。
僕の生活はその当時、まさに製造的なデザイン真っ盛りだった。
しかしながらいずれくる過当競争を含むこの分野を脱却するべく新しい天地を求めて大学院へ飛び込んだ。
ユーザーターゲット、開発意図、納期、デビューといった開発期間の中でいかに使いやすく、わかりやすく、親しみやすいデザインを行うかが課題ではあった。
つまり合目的に開発は進められ、デザインはあくまでも目的を達成する手法であった。

Activity baced Design は、合目的とは正反対に、ユーザーの活動を通して人と物との関わりをデザインしていく。
違う使い方をしている場合、事業戦略とはかけ離れてものが見えてしまう。
新しいコンセプトを作るには良いが、既存の製品を新しくリニューアルするにはあまり向いていない。
iPhoneのような新規的なものを作るには適している

そこで今日のタイトルのような「起業的デザインと継承的デザイン」という言葉が思いついた次第
従来の多くのデザイン活動は「継承的デザイン」に該当する
ポスターでも、プロダクトでも。
誰かが作ったレールの上で何かを再構築し、プロデュース、プロモーションしていく。
だからレールに沿っていくように合目的なのだ。
対する「起業的デザイン」は、活動の中の意味をくみ取り再構成し、新しい意味あるものをデザインすることで新しい業態を作る可能性がある。

やっぱりおもろい。
そしてこのおもしろさは、やった人しかわからない。
だってマニュアル化できないから。
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by GUILD_HALL | 2012-04-23 09:36 | デザイン